Kichuyo of 河村喜平 喜中窯

喜中窯 Kichuyo

さなげ陶房から喜中窯へ。

土を求めて。
 祖父・河村喜太郎は、探究心を常に持った陶芸家でした。我家に残る古い彼のノートには、釉薬や絵付け、土などに関するメモや、友人知人との情報交換の記録などが残っています。

 猿投地方は、他に類を見ない特徴ある土が、質と種類ともに豊富です。また、奈良平安時代の猿投古窯を生み出した日本でも有数の須恵器の産地でした。


 昭和25年4月。日本電話施設株式会社の創立者であり、古陶磁研究家でもあった故・本多静雄氏の勧めもあり、喜太郎は猿投の土を求めて、京都五条より愛知県豊田市に移り住むことになりました。
 若いときから工芸運動の先駆として活躍した喜太郎は、評価の高かったとても繊細な染付と色絵の磁器の仕事から離れ、土くさい土器を感じさせる独特の陶器を制作したいという情熱によって、この未知の土地で「さなげ陶房」を築窯しました。


 当時、この地では喜太郎、父・又次郎、加藤唐九郎、岡部(加藤)嶺男、杉浦芳樹らが作陶活動を行っており、現在でもその窯跡を豊田市が保存しています。

現在まで。
 昭和36年。喜太郎は、京都大徳寺・立花大亀老師のお導きにより、鎌倉の北大路魯山人陶房跡に其中窯(きちゅうよう)を開窯。「さなげ陶房」を父・又次郎に託しました。しかし、ようやく其中窯が整った昭和41年、喜太郎が急逝。そのため、又次郎が「其中窯」を受け継ぎ、鎌倉に活動の場を移します。喜平4歳のことです。


 平成10年。喜平は荒れていた「さなげ陶房」を復興するために、愛知県豊田市のこの地に戻ります。


 平成11年11月。立花大亀老師より、喜太郎と喜平にちなみ窯名をいただき、「喜中窯」を開窯。30余年ぶりに喜太郎の作った窯に、再び火が入りました。





写真左*喜太郎のスクラップブック。工芸や芸術に関する新聞の切り抜きなどが張られている。
写真右*平成11年11月の窯開きの際の神事。半壊していた窯を修復。

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登窯 noborigama

 登窯とは、傾斜地を利用してつくられた、いくつもの燃焼室からなる窯。16世紀後半に、朝鮮半島から日本に伝わった。喜中窯は登窯でも京窯と呼ばれる形式。5つの部屋から成っている。一番下にある胴木(どうぎ)と呼ばれる部屋の大口(おおぐち/大きな穴)に火入れをする。そこから火は登り、サマ穴(部屋と部屋の間にある穴)を通った火は、上の部屋へ上の部屋へと移動。部屋の温度は、それぞれの部屋の両脇にあるメンポウ(色見穴)より薪を投げ入れ調節する。この窯は、薪を入れるタイミングが難しく、温度の変化が起こりやすいため、一瞬たりとも気が抜けない。そんなわけで、窯焚いてるとき、いつもにも増して無愛想です。スミマセン。